故郷が、また揺れた──令和8年熊本地震と、10年前の福岡の夜

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令和8年熊本地震から、11日が経ちました。

7月28日の夕方、東京の自宅で緊急地震速報を受け取りました。画面に並んでいたのは、私の故郷──熊本の地名でした。

実家の両親の無事は、確認できています。ただ、あの日からずっと、心のどこかが熊本に置かれたままです。

今回は、故郷を襲った地震について、いち熊本人として書き残しておきたい記録です。

ただ、令和8年の話をする前に、どうしても先に書いておきたい記憶があります。10年前──2016年の熊本地震の話です。

2016年4月──立ち直りかけの旅は、福岡まで来ていた

2014年11月、私は離婚しました。それから1年半近くが経ち、次へ向けて進もうと、精神的には、ほぼ立ち直りつつあった時期です。

突然思い立って、日本国内を旅することにしました。

北は仙台から南は沖縄まで。日本一周というほど大げさなものではなく、仙台、新潟、神奈川、大阪、兵庫、愛媛、沖縄、福岡と回って、最後は故郷の熊本で締める。

2週間ほどの計画でした。

沖縄を経て、旅はいよいよ福岡へ。

福岡は、私にとって熊本に次ぐ第2の故郷です。

15歳のとき、甲子園を目指すために自分で選んだ街。高校の3年間は寮で暮らし、大学からは部屋を借りて一人暮らし。卒業後、プロボクサーとしての最初の3年間もこの街で過ごしました。当然、知り合いも多い。

このとき会う予定だったのは、福岡時代のボクシングの師匠と、プロボクサー時代にアルバイト先で一緒だった数人でした。

当時同門だった先輩がボクシングジムを開いていたので訪ねると、そこへ師匠も来てくれました。

以前、沖縄の海岸を探しに行った記事に書いた、あの師匠です。

久しぶりに、軽く当てる程度のマスボクシングをして汗を流しました。自分の体力の激減ぶりとスピードの衰えぶりに本気で凹みましたが、それでも、本気で腹を割って話せる師匠はやはり偉大でした。

近況を報告しているうちに、抱えていた離婚の悩みが、ずいぶんちっぽけなものに思えてきたのを覚えています。

会食の席で、揺れた

その夜、予定どおり、当時のアルバイト仲間たちと4人で会食をしていました。

!!!

突然揺れました!

それも、なかなか大きな揺れです。現地の福岡で震度4。

すぐに調べると、震源は熊本でした。震度7。翌日、私が向かうはずだった故郷。しかも震源の近くには、親も親族も、みんな固まって住んでいます。

しばらく連絡がつきませんでした。ようやく身内全員の無事が確認できて、胸をなでおろしたのも束の間──今度は、私自身が身動きを取れなくなりました。

電車もバスも止まり、翌日の熊本行きは消えました。かといって、飛行機も飛ばないので、東京へ戻ることもできません。

まいった。

とりあえず今夜の宿を確保しなければと、福岡の街なかを彷徨い歩きました。

彷徨った先に、知った顔があった

そのとき、知った顔に出会ったのです。

大学時代にお付き合いさせていただいていた女性でした。──実は、のちに私の妻になる人です。

状況を話すと、「空いている部屋があるから」と、飛行機が飛ぶまで実家に泊めてくれることになりました。ご家族みんな歓迎してくださって、その夜は懐かしい思い出話に花が咲きました。

ところが!

その夜の深夜遅く、また揺れたのです!!

前回よりはるかに大きく、福岡でも、はっきりと恐怖を感じる揺れでした。

これが、本震でした。最大震度7。

翌朝のニュースには、いたるところが崩れた熊本の街が映っていました。

地震は、憎むべき災厄です。そこに美談を接ぎ木するつもりはありません。ただ、事実として──あの足止めの夜の再会がなければ、いまの私の家庭はありませんでした。人生は、どこで何がつながるのか、本当に分からないものです。

それから10年──また、夕方の緊急速報

あれから10年。

熊本城の石垣も着々と積み直され、復興が形になってきた矢先の、令和8年熊本地震でした。

気象庁の発表によると、発生は7月28日16時27分。マグニチュード7.1。宇城市と氷川町で震度7を観測しています。

参考:気象庁「令和8年熊本地震」について(第3報)/https://www.jma.go.jp/jma/press/2607/28d/202607282030.html

今回の私は、東京の自宅で夕方の緊急速報を受け取る側でした。

すぐに両親へ電話をかけ、ひとまず無事は確認できました。

それでも、安心はしきれません。10年前に「大きな揺れのあとから、もっと大きな本震が来る」ことを、体で知ってしまっているからです。

私の生まれ育った実家は、熊本市から40〜50kmほど離れた山あいの田舎町にあります。

両親ももういい歳で病院通いが多いため、熊本市にも小さな家を持ち、病院のある日は熊本市、それ以外の日は実家と、2〜3日おきに行き来する暮らしをしています。

地震の日、ふたりは熊本市の家にいたそうです。

ちなみに話が脱線しますが…

この行き来を支えているのは、父の運転です。父はそろそろ免許の返納も考えなければならない年齢ですが、あの土地では、車がないと生活があまりにも不便になります。病院も、買い物も、そして今回のような災害時の移動も、すべて車が前提の暮らし。

返納をどうするかは、田舎に生きる両親を持つ息子にとって、大きな課題のひとつです。

…脱線した話を戻します。

地震から数日後、両親が実家の様子を見に行くと、蛇口から水が出ない…。

水道管が破裂していたのです。

今回の地震では、最大で約8万4,000戸の断水が報告されています。ニュースで流れていく大きな数字が、蛇口ひとつの手触りをもって迫ってきたのは、初めてのことでした。

参考:国土交通省「令和8年熊本地震による被害状況等について」/https://www.mlit.go.jp/common/002014129.pdf

なじみのイオンモールが、ニュースの中にあった

少しずつ入ってくる情報のなかで、いちばん愕然としたのが、嘉島町のイオンモールで起きたガス爆発の報でした。

実はこのイオン、我が家御用達のお店だったのです。

嘉島町というのは、熊本市へのアクセスがよく、かといって都会すぎない、ちょうどよいベッドタウンです。そして私にとってこのモールは、帰省の風景そのものでした。

熊本に帰省して実家へ向かうとき、必ずここに寄って数日分の食料を調達するのが日課でした。実家は田舎で、何でもそろうような大きな店がありません。空港から実家へ向かう道中、最後の大型ショッピングモールがここなのです。

東京へ戻る日も同じです。空港まで送ってもらう途中、最後に立ち寄るのがこのイオンでした。両親と私たち夫婦の4人で、モール内の飲食店で早めの夕食をとってから、空港へ向かう。それが定番でした。

テレビの映像で見た、通い慣れたその場所は、原形をとどめないほどの姿になっていました。他人事ではない、という言葉の本当の重さを、あの映像に教えられた気がします。

発災後の思いは、Xにも残しました。

一年でいちばん暑い時期に

今回の地震がとりわけ苦しいのは、その時期です。被災地では猛暑日が続き、夜になっても気温が下がりきりません。この暑さのなかで、避難生活を送り、後片付けに向き合っている人たちがいます。

まだ、懸命の捜索も続いています。一人でも多くの方の命が助かることを、祈るばかりです。

そして、今回の地震とその二次災害でお亡くなりになられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

熊本城の石垣は、10年かけて、少しずつ積み直されてきました。崩れても、積み直す。故郷の人たちがそれをやり遂げていく姿を、私はこの10年、帰省のたびに見てきました。

いま被災地にいない人間が口にすると、軽く聞こえてしまうかもしれません。それを承知のうえで、熊本人として、あえて言わせていただきます。

今回も、時間はかかったとしても、必ず積み直されます!熊本は必ず復興します!!

私は、そう信じています。

次に帰省するとき、あの定番の夕食がすぐに戻ってくることはないかもしれません。

それでも、また4人であのテーブルを囲む日を楽しみに、東京からできることを続けていくつもりです。

がまだせ!熊本!!

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Studio Rough Style(SRS)代表。 当サイト管理人&編集長。 1976年生まれ、熊本県出身、東京都在住。 元プロボクサーで、選手引退後に、派遣・アルバイトなど30社以上の現場を渡り歩くフリーター生活を経験後、セカンドキャリとしてネット起業の世界へ。 詳細は下記にて。 [clink url="https://studio-rough-style.net/self-introduction/"]

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