消費するだけの趣味は、虚しい──動画を観て、買い物をして、お酒を飲んで。その最中は確かに楽しいのに、終わった後に何も残っていない気がする。そんな感覚に心当たりがあるなら、先に私の結論をお伝えします。
消費する趣味が悪いのではありません。「消費が100%で、創造が0%」という比率が、虚しさを生んでいます。
私自身、YouTube観賞も晩酌も温泉も愛してやまない、立派な「消費する側」の人間です。それでも虚しさと無縁でいられるのは、そこに「創造」がひとかけら混ざっているからだと考えています。
この記事では、消費するだけの趣味がなぜ虚しくなるのかを3つの理由に分解し、そのうえで、いまの趣味を何ひとつ捨てずに「創造」を混ぜる3つの方法をお伝えします。
私の趣味は、半分が「消費」でできている
最初に白状しておきます。私の趣味の半分は、純度100%の消費です。
『家、ついて行ってイイですか?』が好きで、たまにTVerで観ています。『宇宙兄弟』にハマったときは、何話観られるかを調べたうえで、それを肴に呑む計画を立てていました。同じテツロウとして『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』は欠かせません。
温泉巡りや旅行は長年の趣味ですし、プロ野球も観る専門。どれも、観るだけ・浸かるだけ・飲むだけ。何かが生み出される要素は一切ありません。そして、これらを手放す気はまったくありません。
一方で、私の暮らしには「作る側」の趣味もあります。自ら手を入れるDIY。土に触れる家庭菜園。毎日の料理(家事は男の仕事をモットーにしています)。そして、こうして文章を書いて発信することも、広い意味では創造の側です。
両方を長くやってきて、はっきり分かったことがあります。
消費型の楽しさは「その場」で完結して消える。創造型の楽しさは、翌日も手元に残る。番組を観終えた瞬間に楽しさは店じまいしますが、ベランダに作った棚は翌朝もそこにあり、菜園の野菜は昨日より育っている。この「残るかどうか」の違いが、後から効いてくるのです。
とはいえ、虚しさに悩む人への問いは「消費する趣味をやめるべきか?」ではありません。「創造がゼロのままでいいか?」──これが正しい問いだと私は思っています。
なぜ「消費するだけ」だと虚しくなるのか──3つの理由
理由①:受け身の楽しさは「その最中」しか続かない
心理学者ミハイ・チクセントミハイらは、人々に1日に何度も信号を送って「いま何をしていて、どう感じているか」を記録させる経験抽出法という手法で、日常の幸福感を大量に測定しました。その結果、意外な事実が浮かび上がります。
テレビ視聴のような受動的な余暇では、人が深い充実感(フロー)を感じることはほとんどない。むしろ没頭や充実は、仕事や、能動的に取り組む活動の最中に多く生じていたのです。
参考:Csikszentmihalyi, M. & LeFevre, J. (1989). “Optimal experience in work and leisure” Journal of Personality and Social Psychology, 56(5), 815-822/https://doi.org/10.1037/0022-3514.56.5.815
受け身の楽しさが「ダメ」なのではありません。ただ、それは画面が消えた瞬間に終わる種類の楽しさだ、ということです。没頭という状態がなぜ人を満たすのか、その科学的な仕組みは別の記事で詳しく整理しています。
理由②:消費は「減っていく」、創造は「積み上がる」
2つ目の理由は、もっと単純な算数です。消費は、お金と時間を使った分だけ、手元から何かが減っていく行為です。一方の創造は、どれだけ下手でも、終わったあとに何かが残ります。不格好な棚、育ちすぎたキュウリ、誰にも読まれない文章──そして何より、「昨日の自分より少しだけうまくなった」という感覚が残る。
私は以前から、情報で見聞きした答えと、行動を通して自分で導き出した答えは、同じ回答でもまるで別物だと考えてきました。
消費するだけの趣味は、どこまでいっても「見聞きする側」に立ち続けることです。楽しいけれど、自分の中に過程が蓄積されない。虚しさの正体は、快楽の不足ではなく、蓄積の不在──これが、両方の趣味を行き来してきた私の結論です。
理由③:人は「自分の手が入ったもの」にしか、特別な愛着を持てない
行動経済学に「IKEA効果」という研究があります。ハーバード大学のノートンらの実験で、自分で組み立てた収納箱や折り紙に対して、人は既製品や他人の作品よりもはるかに高い価値を感じることが示されました。
出来の良し悪しは関係ありません。「自分の労力が入っている」という事実そのものが、対象への愛着と満足を生むのです。
参考:Norton, M. I., Mochon, D., & Ariely, D. (2012). “The IKEA effect: When labor leads to love” Journal of Consumer Psychology, 22(3), 453-460/https://doi.org/10.1016/j.jcps.2011.08.002
これは私自身も実証済みです。ホームセンターで買えば数千円で済む台を、わざわざ半日かけて作る。仕上がりは市販品に遠く及びません。それでも、既製品を置いたときとは愛着がまるで違う。買ったものは「所有物」ですが、作ったものは「自分の一部」なのです。
消費するだけの趣味に決定的に欠けているのは、この「自分の手が入る」瞬間だと言えます。
それでも、消費する趣味を捨てる必要はない
ここまで読むと「やはり消費する趣味は劣っているのか」と感じるかもしれません。
違います。むしろ私は、消費型の趣味を回復のための時間として堂々と楽しむべきだと考えています。好きな作品を肴にした晩酌は、私にとって一日の締めくくりの至福であり、これを「生産性がないから」と手放すつもりは生涯ありません。
大事なのは、消費と創造の比率を厳密に管理することではなく、創造がゼロかゼロでないかです。
ここで心強い研究があります。658人の若者を13日間追跡した日記研究では、創造的な活動に普段より多く時間を使った日の翌日、活力ある前向きな感情と心理的な充実度が高まることが確認されました。逆方向──気分が良いから創造的になる──は支持されておらず、創造が先、充実が後です。
参考:Conner, T. S., DeYoung, C. G., & Silvia, P. J. (2018). “Everyday creative activity as a path to flourishing” The Journal of Positive Psychology, 13(2), 181-189/https://doi.org/10.1080/17439760.2016.1257049
注目すべきは、この研究で扱われた創造的活動が、作曲や絵画のような大げさなものに限らないことです。料理、編み物、ちょっとした工作──日常の小さな「作る」で十分でした。つまり、創造をひとかけら混ぜるだけで、消費の時間まで含めた生活全体の手触りが変わる。消費か創造かの二者択一ではないのです。
消費に「創造」を混ぜる3つの方法
では、何から混ぜるか。
趣味を総入れ替えする必要はありません。いまの消費型の趣味に、そのまま接続できる方法を3つ挙げます。
なお、「混ぜる以前に、そもそも趣味と呼べるものがない」という方は、リストから探すのではなく日常の「好き」に気づくことが先です。趣味ゼロだった私が趣味に囲まれるまでの道のりと合わせて、大人になってからの趣味の見つけ方を別の記事に書きました。
方法①:「観る・読む」の後ろに、一言のアウトプットを足す
いちばんハードルが低いのはこれです。観た番組、読んだ本、飲んだ酒について、一言でいいから自分の言葉を残す。メモアプリでも、SNSでも、家族に話すでも構いません。
「観る」だけなら消費ですが、「観て、どう感じたかを言葉にする」は小さな創造です。同じ作品を観ても、感想を言語化しようとした瞬間に、観方そのものが受け身から能動に切り替わります。私がテレビ番組を観て感じたことをたびたび発信のネタにしているのも、消費を創造の入り口として使い回しているようなものです。
方法②:「買う」の前に、「作れないか」と一度だけ考える
2つ目は、財布を開く直前のワンクッションです。何かを買おうとしたとき、「これ、作れないか?」と一度だけ考えてみる。作れそうにないなら、堂々と買えばいい。ただ、月に一度でも「作る」を選ぶと、その一回がIKEA効果ごと生活に残ります。
入り口として最強なのは料理です。毎日必ず機会が来て、失敗しても食べれば消えて、うまくなった分だけ確実に生活の質が上がる。我が家の台所は私の担当ですが、菜園で採れた野菜を「さて、どう食べようか」と考える時間は、どんな番組よりも頭を使う創造の時間になっています。
方法③:完成度を求めない──「ラフでいい」と先に決める
創造を遠ざける最大の敵は、才能不足ではなく「どうせやるなら、ちゃんとしたものを」という完璧主義です。上手な人の作品がいくらでも目に入る時代、比べれば自分の一歩目は必ず見劣りします。だから、始める前に決めてしまう。
下手でいい。不格好でいい。ラフでいい。
私の棚は歪んでいますし、菜園は毎年どこかで失敗します。それでも成立するのが趣味の創造の良いところで、仕事と違って納品先がありません。完璧な完成図ではなく、いつでも描き直せるラフ案で進める──この考え方は趣味に限らず、人生全体に応用できるものとして別の記事にまとめています。
おわりに──「作る側の椅子」にも、たまに座ってみる
消費するだけの趣味は虚しいのか。答えをまとめると、こうなります。
虚しいのは消費だからではなく、創造がゼロだから。
受け身の楽しさはその最中しか続かず(理由①)、使った分だけ減っていき(理由②)、自分の手が入らないものには愛着が宿らない(理由③)。だからこそ、観た後の一言、買う前の一考、ラフでいいという宣言──そのどれかひとつで、景色は変わり始めます。
スローライフの文脈で「消費から創造へ」という言葉を聞くと、禁欲的な暮らしを想像するかもしれませんが、実態は逆です。消費の楽しみはそのままに、作る側の椅子にもたまに座ってみる。それだけで、同じ晩酌が「ご褒美」に変わり、同じ休日の密度が変わる。
スローライフとは我慢することではなく、自分の時間の使い方を意識的に選ぶことだ──という話は、こちらで詳しく書きました。
当サイトでは、DIYや畑仕事、ものづくりといった「作る暮らし」を軸に自分の人生を組み立てている方々のインタビューも掲載しています。消費と創造のバランスの実例集として、覗いてみてください。
そして、「働く→消費する→また働く」というループそのものから距離を置き、創造する時間を暮らしの真ん中に据えるための設計図は、著書(Amazon kindle ランキング 5冠を達成した電子書籍)『あ、常識とかいいんで、とりあえず自由ください。』に書きました。下記より無料でお読みいただけます。


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